この本は、そんなことを教えてくれた。
おや、いつの間にか文庫版が出ていた。
これなら気軽に読める。ぜひ一度手にとって頂きたい。
幼いころ、なかなか寝付けない夜に「死」について考えてしまったことが、よくあった。
そのたびに両親のもとに駆けていっては、なだめてもらったったのをよく覚えている。
漫画『ダイの大冒険』でポップが回想していた、アレだ。
さすがにあんなに格好良いセリフは私の母からは聞けなかったが。もしかしたら皆さんも同じような経験があるのではないか、と思う。
死は、怖かった。
それは、自分が居なくなると言うことへの恐怖だ。
誰も自分を認識できなくなる。そもそも自分自身が無くなるとはどういうことなの?
このあたりのことは大人になった今でもモヤモヤするため、あまり考えたくない。
それから20年ほどが経ち、夜、両親を困らせることもなくなって久しいある日のこと。
父が急逝した。
こうして文章にするとあっけないものだけれど、事実、あっけなかった。
私が大阪から駆けつけた時には既に事切れていた。
もう死は怖くなかったはずだった。
でもそれは自分の死について考えた時のことで、他人の死のことじゃなかった。死は怖かった。他人のそれは自分のものよりも、ずっと現実のものとして目の前に立ちはだかり私の頬をぬらし棺を焼き上げて父は両手で抱えられるくらい小さくなった。
うへ。他人の死は怖い。自分の死よりも。
父の死は、多くを変えた。もちろんその中に好ましいことは一つもなかった。
その頃は、家族みんなが環境の変化に忙殺された。
多くを考える暇も無く、死は煩わしい変化をもたらすものとして再認識された。
それから10年近くが経った。
この本を読み終えて、私はいま一度「死」について考える機会を得た。
その「死」は、「他人の死」としての「自分の死」である。
自分が死ぬということは、自分だけの「死」の問題ではない。
家族含め、関係をもった周りの人全てにとっては「他人の死」なのである。むしろ、その認識の方が重要だ。
この本の著者、金子哲雄氏は難病のため、働き盛りにしてこの世を去った。本には闘病の記録が綴られているが、それだけではない。金子氏は自分の死を回避できないと悟るや、自分の死のプロデュースに向けて準備をはじめるのだ。しかも、前向きな気持ちで。
金子氏の場合、病に冒されてから逝去するまでに猶予があった。だから周到な準備ができたのではないか。
確かにその通りだ。私も最初読み終えた時はそう考えた。
だが、よく考えれば死は遅かれ早かれ誰にでもいつか訪れることである。たまたま、それが今日で無かっただけだ。
そう考えると我々には金子氏以上の時間が残されているとも言える。死に向けてゆっくりとでも準備しておくのは当然のことかもしれない。
父が逝った時には、色々なことを彼の頭に抱えていったものであるから、相当の苦労があった。今でもそれは続いている。
今のところ私には大して守るべきものも死後伝えることもないけれど、「エンディングノート」を書いてみることにした。
もちろん、私は今後50年は死ぬつもりは無いことを書き添えておく。
これは遺書ではない。いつか訪れる自分の死の混乱から、家族を守るための保険である。